大奥には、必死に生きた数々の女性の物語がある

人生100年時代

大奥は「禁断」の場所であるとともに、必死に生きた女性の信じられないような大変興味深いいろいろな話がある。

第42回 大奥にうごめく女性

(1)お福という女性

3代将軍徳川家光の男色を是正するため、女を連れてきては奥入りさせ、目覚めさせて、将軍の「胤」を存続させる大奥という“機能”を完成させた。

お福は、波乱万丈の女性だった。

慶長9年、家康によって竹千代(長男)の乳母に抜てきされた。それは、大奥を制度として確立させた、江戸幕府初期の優秀な政治家だったからだ。

もともと明智光秀の重臣・斎藤利三の娘で、光秀が羽柴秀吉と戦った山崎の戦い(天正10 年1582年)に敗れると、利三も斬首に処された。その後、お福は謀反人の子として流浪を重ね、ようやく結婚したものの夫が浪人の身に堕ちるなど、前半生は波乱に満ちている。

元和4(1618)年、大奥に関する法度が定められた。「男子禁制」「暮六つ以降は出入りを禁じる」など。さらに家光の男色に絡み、将軍の「胤」を存続させる大奥という“機能”を完成させた。

寛永6(1629)年、お福は公家の三条家の猶妹(義理の妹)となり、宮中に参内する資格を得て、「春日局」の称号を授かった。寛永20(1643)年、病に伏した。

お福は「将軍様御局」と呼ばれ、この職がのちに大奥幹部の役職である「御年寄」として定着する。同時に御年寄は将軍の「胤」を管理・監督する立場として、老中をも上回る強大な権力を手中に収めていく。

(2)大奥の女性が愛用したと言われる性具,張形

江戸時代の大奥には将軍家の血筋を安泰にするため多い時で3000人の美しい女性がいた。しかし、3000人の美女内将軍様と褥を共にできるのはごくわずかであり、多くの女性の欲求不満が渦巻く地獄でもあった。そうした大奥の女性が愛用したと言われる性具が張形である。

(3)大奥の大スキャンダル-1 「絵島生島事件」

「大奥のトップ・御年寄の絵島が徳川の菩提寺に参拝した後、すぐに江戸城に戻らず、呉服御用達の商人と合流し、歌舞伎鑑賞に大勢で出向いてしまい、大奥の門限である暮六つ(午後6時)を過ぎてしまった」ことから生じ大事として処理された。

<絵島>

甲府藩士の娘として生まれ、月光院付きの女中として大奥に入った。月光院は6代将軍・家宣の側室だ。その奥女中として重用され御年寄まで昇りつめた

絵島島が正徳4(1714)年、7代将軍の母、月光院の名代として徳川の菩提寺である芝・増上寺へ参拝に出向いたことで、運命が狂う。月光院は7代将軍の母だが、菩提寺への参拝といえども江戸城の外へ出ることを厳しく制限されていた。そのため、代理として参拝する者が必要だった。白羽の矢がたったのが絵島だった。このことは、絵島が月光院から厚い信頼を得ていたことを物語る。

参拝を終えた絵島はすぐに江戸城に戻らず、呉服御用達の商人と合流し、歌舞伎鑑賞に出向いてしまう。絵島をはじめ御中臈や荷物運びの男性役人ら、総勢100人超がそろって歌舞伎を見たという。

観劇後に茶屋で宴会も催され、絵島はしこたま酒を飲み、その席には鑑賞したばかりの芝居の役者・生島新五郎も呼び出されて参加したという。

<処置>

①絵島は取り調べの容疑ありとの理由で、絵島の義兄にあたる御家人・白井平右衛門の屋敷に「預け」となる。

容疑は歌舞伎役者生島新五郎との密通、大奥の内情など、機密事項を漏らしていたという疑い

(→冤罪の可能性大)

後、流罪に処され信濃の譜代・高遠藩に幽閉される。絵島は27年生きた。

②御用商人と新五郎ら芝居関係者には、容赦ない拷問が加えられた

③新五郎は流罪に処され、三宅島への遠島だった。芝居小屋関係者数人も同罪だった

④義兄の白井平右衛門は監督不行き、連帯責任で死罪(斬首)。


<真相>

冤罪だとしたら、絵島や新五郎らが罪を着せられたのは、なぜだったのか?

それは、幕閣の権力闘争が背景にあったという説がある。

7代・家継の生母として権勢を誇っていた月光院と、後継者を産めなかった正室の天英院。それぞれと関係が深い幕閣同士は、熾烈な権力闘争を繰り広げていた。

6代将軍・家宣の治世、実質的に幕政を動かしていたのは側用人の間部詮房と儒学者の新井白石だった。家宣没後も、月光院と幼くして7代将軍となった家継を後見して権力を維持しようとした2人を、天英院側が快く思うはずがない。そんな折、月光院付きの奥女中が、門限破りという失態を犯したのだから、利用しない手はない。月光院派を追い落とすために騒ぎを大きくし、最終的に「密通」に仕立て上げた—これが最近の説である。

(4)大奥の大スキャンダル-2 「延命院事件」

11代将軍・家斉の治世、多くの側室と子どもで規模が膨れ上がった大奥は、風紀が乱れていたようで不祥事が生じる土台はあった。

享和3(1803)年、日暮里にある日蓮宗の寺院・延命院の住職日道と、参詣にやって来た奥女中が愛欲にふけっていた事実が白日の下、明らかになったのである。大奥の堕落を象徴する出来事として、長く記憶に刻まれることになった。

日道は当時30代大変な男前だった。江戸市中の女たちが、日道を目当てに日参するほどだったという。日道を慕う女たちに、江戸城の奥女中が混じっていた

延命院は3代将軍・家光の側室だったお楽の方が帰依し、そのお陰で嫡男・竹千代(後の4代・家綱)を授かった、子宝に恵まれる寺として知られていた。

このため、将軍の世継ぎを待望する大奥から、御台所や側室に代わって奥女中が代参する「通夜参籠」が珍しくなかった。奥女中が頻繁に通う将軍家と縁深い名刹の住職が、破戒僧(出家して僧侶となった者は女犯禁止)であった。

寺社奉行の脇坂安董淡路守は、徹底的に調査し、大奥屋敷に勤める複数(6人判明)の女中と関係を結んだことが判明した。

日道は、死罪。女中は無期限の自宅謹慎などの処罰を受ける。

(5)明治維新後の大奥女中の行く末

明治期は、大奥を退職した「御殿下がり」の女性が多く生まれてしまった時期だった。

江戸城が開城される前、大奥には約500人ほどの女中がいたと言われている。徐々に女中は暇に出されていく。殿下り一方で世間とのズレも・

御殿下りの女性は、世間とのずれがあり、住みにくかったのだが、町でみかけるとすぐに分かるほど品があり目を引いたようである。

明治期に作られた江戸の回顧録「幕末明治女百話」に、こんな一節がある。

御殿下りをすると実家へ帰るのが普通だったが、このようなことが原因で実家でも折り合いが悪く、また婚期を過ぎてから御殿下りした女中は縁談もない。

一人で身をたてていくしか無い元女中も、多かった。

家族と暮らせなくなった御殿下りは、別に家を持って一人で生計を立て始めた。

一般常識については問題があっても、上流の世界で暮らしていたので、お茶やお花の腕前は一流。そのためたくさんの弟子をもったり、嫁入り前の修行に習いにくる女性も多かったようである。御殿下りの女性たちも、このように社会進出をして明治期をたくましく生き抜いた。

これらの生々しい物語が明治以降明らかになったが、大奥の女性は必死に生きていたことがわかり、大変興味深い。

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