将軍は、大奥への床入りも女官に監視され完全な自由はなかった

人生100年時代
Tokyo, Japan - April 11, 2015: View of the Imperial palace in Tokyo, Japan with the Seimon Ishibashi bridge in the foreground

徳川幕府の治世約250年間、大奥は江戸城にありながら、男子禁制の場所だった。

「将軍のハーレム」「嫉妬渦巻く女性同士のバトル」など、時代劇に描かれた世界が展開されていたのだろうか。少し誇張ではあるが、まったく間違っているとも言えない。いろいろ面白い物語が残っている。

明治維新まではどのようになっていたのかく全く知られず、まさしく「禁断」であった。

以下の事は、明治維新以降徐々にわかってきた。

3回に分け大奥について紹介する。

第40回 大奥の仕組み

1)なぜ明治維新までわからなかったのか

大奥は江戸城が明治幕府に開城されるまで存在し続けた。

それまで大奥のことが外部に漏らされることがなかったのは、彼女たちが奉公に際して「大奥でのことは一切口外しない」という誓紙に血判をしているからである。

これが明治に入り少しずつ語られることとなり、資料などを総合することによってその実情が次第に明らかにされていった。

2)大奥の成り立ち

一般的な武家住宅は、室町時代頃から、主人が対外的な実務に使う「表」と、家族と日常を送るための「奥」とで分けられていた。

この奥向きが大奥と呼ばれるようになったが、二代将軍の徳川秀忠が1618(元和4)年に「大奥法度」を定め、将軍家以外で「大奥」と言う名称を使うことを禁止したので大奥は江戸城の他に存在しなかった。

3)大奥の役割

①跡継ぎを生み育てることにある。

②江戸城内における将軍の唯一のプライベート空間で、ここで房事が行なわれて世継ぎ候補の子作りに励んでいた。

③御殿は正室、側室に使用され、大奥女中が暮らしていた。

4)大奥の場所

江戸城内は、本城(本丸、二の丸、三の丸)、西の丸、紅葉山、吹上御庭、西の丸下で構成されていた。この内、大奥が置かれたのは本丸、二の丸、西の丸の3つの郭(くるわ)である。

本丸は将軍夫妻、二の丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西の丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとしていた。ただし本丸の非常時には、二の丸や西の丸が代わりとして機能した。さらに詳細を述べると

本丸:表・中奥・大奥の三つの区画に分かれていた。

表は将軍が政務を執るところ

中奥は官邸の役割を果たしていた。

大奥は女官のすむところ

二の丸:お世継ぎなどがすむ

三の丸:重臣が暮らす屋敷や、馬を飼育する場所、城主のための厠、蔵などが置かれた。

西の丸:大御所とよばれる隠居した将軍と、その正室などが住む場所

5)大奥の構造

大奥は御殿・長局・御広敷の3つに分けられていた

*御殿は正室、側室に使用され、ここで房事が行なわれて世継ぎ候補の子作りに励んでいた。将軍の寝所である御小座敷、御台所居所(「松御殿」、「新御殿」)、大奥女中詰所などがあった。

*長局は大奥女中が暮らす2階建ての居所で、一の側から四の側まで4棟に分けられていた。さらに東長局、御半下部屋があった。

*御広敷

広敷は大奥の玄関口である。広敷には男性の広敷役人がいたため、御殿との間の錠口、長局との間の七ツ口によって仕切られていた。

6)大奥の女性

*将軍正室は御台所と呼ばれる。

*将軍の側室は基本的に将軍付の御中﨟から選ばれる。

寝間を終えた中﨟は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」、男子を出産すれば「お部屋様」となり、正式な側室となる。さらに、我が子が世嗣に選ばれ将軍職に就くと将軍生母となり、時代によっては御台所を遥かに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。

*女官

多い時には2000〜3000人の女中がいたと推定されている。

将軍に謁見できる「お目見え以上」と「お目見え以下」に分かれていた。身の回りの世話や掃除などの雑務を担う者から、町屋敷を与えられ大奥全体を取り締まる役まで様々なものがあった。

徳川秀忠の1618(元和4)年に制定した「大奥法度」により、千人を超える女性だけの大奥が誕生した。主な職位は20以上様々である。出典 : 『将軍と大奥』(山本博文著 / 小学館)に詳しい。主なものを記すと

*御年寄:大奥のすべてを差配する最高権力者

*上﨟御年寄:御台所の話し相手

*御中臈:将軍・御台所の身辺世話役。この階層の将軍付きから側室が出る

7)将軍の夜伽

①女性は自由に選べたのか

将軍が行き来する範囲は限られていて、お相手は「御中臈」からとなるので、1000人以上の女官の中から自由に選ぶということではない。

②毎晩通っていたのか

毎日ということはなかったようである。例えば歴代将軍の月命日の墓参の前日は身の清めのため大奥は禁止だった。

③床入りは完全な自由はなかった

将軍専用の部屋である「御小座敷」には常時、隣室に夜勤の女性が複数控えていた。当日「御添寝」する女性が部屋に入ると、さらにもうひとり別の女性が彼女のすぐ隣に敷かれた布団に背を向けて横になる。

将軍があとから部屋を訪れて「夜の時間」が始まっても、横の女性はそこを離れずじっと「聞き耳」を立てていた。

将軍への「おねだり」防止の監視役である。初期の頃には、添い寝の女性が将軍とのプライベートな時間を過ごすにあたり、将軍に直接自分の親族縁者の異動昇進を頼んだり、日頃付き合いのある御用商人から賄賂を受け取って御用達指定をあっせんするなどの不正が横行した。そのため、こうした行為の対策として、添い寝の女性に対する監視が厳しくなったのである。

最高権力者でもある意味監視されているのは民主的で、良い政治のためであり日本的な良さが出ていると思われる。

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