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第43回 人類の移動手段 馬の真実
移動手段について興味のあることを取り上げることとする。人類の苦労や日本人の創意工夫などを述べる。次回からは江戸時代の話に移る。
人類の歴史のほとんどは、ウマとともにありました。
馬の祖先は5500万年前から存在していたといわれており、現代馬の祖先は約100万年前に現れました。人類が馬を家畜化したのは、紀元前3500年頃の中央アジアだと推測されています。
その一方で、家畜化された現代のウマが、いつどこで誕生したのか。約4200年前に、今日のロシア南西部の広大なステップ地帯で誕生したとのことです。
ウマのスピードや持久力、力強さ、そして従順さは、大規模な民族移動や農耕文化を飛躍させるきっかけとなっています。
牽引用としての使用だけでなく、オス馬は肉用、メス馬は乳用としても用いられていた。その後、馬具や車輪が開発されると牽引の威力に注目が集まり、軍事用の主力として使われるようになりました。
1)移動の始まり
<世界の大昔からの変遷>
①紀元前1万年頃
船の原型となる丸太や木の枝を束ねただけの簡素な「いかだ」を作り、水に浮かべて人力で移動して魚を捕っていたという。
②紀元前3000年頃から紀元前5000年頃
風力を利用する帆船ができ、陸上では荷物を運ぶ方法として、ロバなどの動物が使われるようになっていた。また、人は馬に乗り始める。
③紀元前2010-196
エジプト王朝の王の墓から出土された木製の船が発見された。
④紀元前1350-1046
貴人の墓に副葬されていた車馬が、中国河南省安陽市にある遺跡で発見された。
⑤紀元前312-
イタリア・ローマと南イタリアを結ぶアッピア街道の舗装路の遺跡が見つかり、紀元前244年当時の全長は375kmもあったとされる。
⑥近年
*蒸気機関の発明
1800年代、ボイラーで発生させた水蒸気を動力源とする蒸気機関車は、登場した1800年代始め頃は速さこそ時速13km 程度と遅かったが、馬車とは比べものにならないほど多くの荷物や旅客を運ぶことができた。
*ガソリンエンジンで走る車
1800年代後半
<日本の変遷>
①古代代以前
モノや人の移動は少なく、初期の道は人が踏み固める事で自然発生的に出来た「けもの道」であった。
②古墳時代
玉類や鏡などが運ばれていた。馬が大陸から日本列島に移入されたが、当時は権力の象徴としての威信財としての性格が強かった
③奈良時代
中央集権国家が成立し、大和、山城(山背)、摂津、河内、和泉の五カ国を畿内とし、他の地域を東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道に分け、幹線道路を整備した。
天皇や皇后などが乗る輿が使用された
④平安時代
牛に屋形を牽引させる「牛車」が登場し代表的な乗物となった。
⑤鎌倉時代
源頼朝が支配力強化の為に次々と道路網が建設し、街道は無数にあった。
中でも幹線道は全国の国府を通り、街道沿いに守護所も置かれた。
馬の背に荷をのせて運ぶ馬借や牛や馬に車をひかせて荷を運ぶ運送業者が発達した。年貢の輸送から商品の輸送が主体となった
物資の流通だけでなく、武士の移動も増え、勧進や修行の為に旅する僧や山伏などが多く陸上交通を利用していた。
輸送能力に限界がある牛を使った陸上の交通よりも、一度に多くの荷物を早く運べる「船」を使った水上の交通が発達した。荷物や生産物を運送する場合は船、人を運ぶ場合は輿や騎馬などが使用されました。
⑬戦国
戦乱が治まり織田信長や豊臣秀吉らが天下を統一すると、関所が廃止され、道路や橋が整備される。交通網は、幕府の公用の書状や荷物を、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度である伝馬制度が発展した
⑭江戸時代
*五街道の整備
五街道は江戸・日本橋を起点として東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道の五つ。
*関所
街道の要所には軍事的、政治的な目的から関所を設けて物流や人の移動を監視した。
*橋
東海道中の大きな河川などに橋を架ける事を禁じた。
中規模の河川への架け橋整備を進め、大坂や江戸市中の橋は、船を通す為にアーチ型の太鼓橋が多かった
*一里塚
各街道には約4キロごとに小さな塚が築かれ制度化した。
*飛脚
街道が整備された事で、町人から公儀まで広く利用された。
*大八車
車で荷物を運ぶ方法もようやく定着した。
*参勤交代
街道が整備され、庶民も旅をする事が出来るようになり、宿場町も発展した
馬車鉄道は、鉄道軌道を走る客車を馬に引かせるモノで、1882年に登場した。
蒸気鉄道や電車に代わるまで、都市交通の中心であった。
2)日本での馬とのかかわり
①弥生時代末期から古墳時代
馬の伝来
日本における馬との関わりは、弥生時代末期から4、5世紀初頭の古墳時代に朝鮮半島から乗馬技術や飼養技術とともに渡来し、「軍事用」「輸送用」「農耕用」など様々な使われ方をしていましたが、軍事用として使われることが多かった。
②平安時代
競馬が盛んに行われ始める。乗馬の早さを競うものから、弓を射る騎射などによりさまざまな競馬が行われ、時には賭け事としても利用されていた。
貴族社会でも祭礼の儀式として競馬が流行った。
また軍事用としても活躍しており、8世紀には関東に誕生した大規模な牧場で年間200~300頭の馬産が始まった。
③鎌倉時代
馬は主に軍事用として活躍した。
「平家物語」や「蒙古襲来絵詞」などに馬に乗ったまま崖を駆け下りた、騎射により敵陣に突進した、騎乗集団が軍事演習を行っていたtousiの記述がある。
鎌倉時代になり中型馬が多数を占めるようになったことで、「運輸」や「農耕」としての役割も果たすようになりました。
④江戸時代
馬術の稽古場が作られるなどして乗馬技術の向上が行われていたが、騎乗が許されたのは旗本以上の階級の人のみだったので著しい乗馬技術の成長は行われません。
馬産も活発に行われており、年間2000~3000頭の馬が誕生してい。
⑤ 明治~昭和時代
明治時代には平民の乗馬が許可され、娯楽として乗馬を楽しむ機会が増えた。
明治から昭和の初期にかけては交通手段や農耕用としても活躍し、1932年には113万頭の農耕馬と30万頭の馬車馬が日本で活躍していた。
3)日本馬に関する真実 :小佐々 学 日獣会誌 64 419 ~426(2011)より
①戦国末期の天正年間に九州のキリシタン大名により初 めてヨーロッパに派遣された天正遣欧使節(1582 ~1590 年)の4人の少年は,1584 年8 月から ポルトガル,スペイン,イタリア各地を1 年8 カ月にわ たって訪問して,ローマ法王やスペイン国王など多くの 要人に謁見して大歓迎を受けた際.帰国時に,アラビア馬1 頭とともに西洋の獣医師,調馬師(調教 師)と蹄鉄工(装蹄師)を連れてきた.
②使節は帰国翌年の3 月に京都の聚 楽第で関白豊臣秀吉に謁見して,このアラビア馬を献上 した. 聚楽第に向かう使節の先頭を歩む大型のアラビア馬 は,見物していた全ての群衆を驚かせた.公家の『時慶 卿記』や神職の『兼見卿記』には,共に体高5尺 (150cm)余の馬と記述されており,当時の日本在来馬 (体高約130cm)よりはるかに大きな馬の雄姿が記録されている.また,宣教師フロイスの『日本史』には,聚 楽第で調馬師による見事なポルトガル馬術が披露され, 秀吉や参列した諸大名は,アラビア馬の大きさ,早さや 美しさに驚嘆して大いに讃美しており,贈物の中でもとりわけ気に入ったことが記録されている.
③将軍吉宗と西洋馬の輸入
江戸時代に,幕府は馬の改良目的で西洋馬の輸入を行 っており,36 頭余りが輸入された.8 代将軍吉宗は特に熱心で,9 度にわたって28 頭を輸入した.吉宗の派遣要請により調馬師のケイゼルが11年間に3 度もオランダ 商館員として来日し,西洋式の馬術,調教法や飼育管理法などを伝えた.
⑥武田の騎馬軍団はなかった
長年にわたって戦国期の日本に滞在して合戦を見てき た宣教師フロイスは,ヨーロッパでは馬上で戦うが,日本では馬から降りて戦うと記述している.多くの馬 は戦闘よりも,重い鎧を着た武者を戦場まで運ぶ輸送用の乗物としての役割が大きかった
フロイスが日欧の文化や風習を比較 した『日本覚書』には,馬のことが39 カ条にわたって 書かれているが,日本の馬が直ぐに蹴飛ばしたり,噛みついたり,振り落としたりし、ひどく暴れるその粗暴さや悪癖に悩まされ続けたことを記載している。日本在来馬は去勢されていなかったので,牡馬同士が集まると直ぐに喧嘩する ため,西洋の騎兵隊のような大型の去勢馬による統制が取れた騎馬軍団としての行動は難しく,戦闘馬としての 資質に大いに欠けていた。
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