高校生のころ、古文に凝り、特に女性の活躍する平安文学に興味が注がれた。なぜ、女性が活躍したのだろうか?
平安時代には、宮中の女官がいろいろな文学を記した。世界では、女性が文学を記すのは、近代になってからで、日本ではこの時代から女性が教養をもち、ほぼ男性と同等に尊ばれていたことは驚くべきことである。一方、学校では習わないが、女性同士の見えない戦いがあったようである。
この時代に文学が盛んになったのは、ひらがなの発明と切り離せない。
第37回 平安宮中 女官の文学
1)ひらがなの誕生
日本にはもともと文字はなく、ひらがなは中国から伝わった漢字から生まれた。
①5世紀ごろ、日本語の一つずつの音に、同じ音の漢字をあてはめ、漢字で日本語を書く方法が生まれた。8世紀にできた「万葉集」でも使われたので「万葉仮名」と呼ばれている。
②9世紀には、その漢字を少し簡単にした「草仮名」ができ、さらに簡単な「ひらがな」になっていった。
③和歌や手紙にひらがなが使われ、「古今和歌集」、「土佐日記」、「源氏物語」等の本が生まれた。
2)ひらがな文学の紹介
主なものを以下に平安時代年代順に紹介する <>で括ったのは女性作家
伊勢物語、古今和歌集、竹取物語、土佐日記、<蜻蛉日記>、<枕草子>、<和泉式部日記>、<源氏物語>、<更級日記>、大鏡、<讃岐典侍日記>、今昔物語集
なお、以後、鎌倉時代に方丈記、平家物語、十訓抄、歎異抄、徒然草、室町時代に風姿花伝
さらに江戸時代に野ざらし紀行、去来抄、雨月物語の文学が世に出た。
伊勢物語 未詳 | 9世紀末~ 10世紀前半 | 平安時代初期に書かれた、主人公の青年時代から死にいたるまでの、主に恋愛遍歴を和歌とそれに関する説話を組み合わせた物語構成 |
古今和歌集 紀貫之 | 905 | 10世紀に成立した日本最古の勅撰和歌集 |
竹取物語 未詳 | 遅くとも 10世紀半 | つくり物語の祖とされる。竹取の翁が得たかぐや姫が、貴公子の求婚を失敗させ、天皇の召しにも応ぜず八月十五夜に月の世界に去る。 |
土佐日記 紀貫之 | 930~934 | 土佐守の任満ちた貫之が、934年(承平4)に任地をたち、翌年帰京するまでの55日間の海路の旅をもとにした日記体の紀行文。仮名文による新しいジャンルを創始したものとして、画期的な意義をもつ作品 |
蜻蛉日記 藤原道綱母 | 954~974 | これまでの切なかった夫婦生活を記録に残そうと考えた自らの生涯を綴った自伝。「夫の浮気は許せないけど、夫が好き」「高貴な身分の男性と結婚をしたけど、私は夫に振り回されるばかりの儚き身を嘆く |
枕草子 清少納言 | 1001 | 『源氏物語』に比肩する中古文学の双璧として、後世の連歌・俳諧・仮名草子に大きな影響を与えた。鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。総じて簡潔な文で書かれ、一段の長さも短く、現代日本人にとっても読みやすい内容である。 |
和泉式部日記 和泉式部 | 1003 | 中古三十六歌仙の一人である和泉式部にふさわしく、長保5年(1003年)〜寛弘元年(1004年)までの数ヶ月間の出来事をつづる。和歌の取り交わしと、恋愛に関するありのままの心情描写が大きな特色である |
源氏物語 紫式部 | 1008 | 平安時代中期に成立した日本の長編物語。主人公の光源氏の恋愛、栄光と没落、政治的欲望と権力闘争など、平安時代の貴族社会を描いた |
更級日記 菅原孝標女 | 1020~59 | 父の任期が終了したことにより、寛仁4年(1020年)に上総から京の都へ帰国するところから起筆する。少女時代から30代を経て孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。 |
大鏡 未詳 | 1025~90 | 平安後期の歴史物語で傑出した作品で、後代の歴史物語に大きな影響を与え、確かな史眼と鋭い批評精神は『愚管抄』などに継承されていった。 |
讃岐典侍日記 藤原長子 | 1110 | 平安後期の日記。嘉承2年(1107年)から翌天仁1年までのことを,堀河天皇の死と新帝の即位をめぐってしるしている。生身の天皇について克明に記述しまた死に対する恐怖と苦悩を描写した特異な日記文学。 |
今昔物語集 未詳 | 794~1191 | 当時考えられる全世界を説話によって描き出し、すべての事柄とできごとに統一と秩序を与えようとする試み。構想は、古代末期の価値観の動揺、社会的行き詰まりが、影響して生まれたと考えられる。 |
3)女性の地位
恋愛・結婚の形式は、古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけて、男側が女側に通う「妻問婚」の形態が発展したが、さらに平安時代には、妻問婚は婿入り婚(婿取婚)に形を変え、同時に夫婦の居住は、別居から同居(妻方)への移行をはじめたようで、女性の方が力が強かった。
こういう時代があったのは世界に例がない。これにより文学も女性特有の感性を発揮し女性が幅を利かせる。
①平安時代は、宮中の女官が、日記形式で主に日常生活の恋愛や苦悩について自由奔放につづっている。土佐日記には、紀貫之が、女がすなる日記を男の自分が書きつづると書かれており、女性が日記文学をリードしていたことがわかる。
4)平安宮中の女官の生活
(1)序列
中宮(皇后)→ 女御→御息所 →女院→女房(上臈、中臈、下臈)→女官(尚侍、内侍)
(2)女官と女房
女官:官職を持ち宮廷に仕える女性。家事労働や雑務。
女房:皇族や貴族の人々に仕えた奥向きの側仕えの女性。
(3)女房の紫式部、清少納言、和泉式部
「女房」とは、一人住みの「房」、すなわち部屋を与えられ、宮中や貴族の屋敷に仕えた女性のこと。娘を天皇に入内させるような上流貴族は、娘に仕える女房を精選した。女房の主たる役割は、自分の仕える主人が、天皇に寵愛されたり、男性貴族たちに信頼されたりするように努めることであった。したがって、女房には何よりも高い教養や鋭い才知が必要とされた。
*紫式部
『源氏物語』の作者。一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女)に女房として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。性格はかなり引っ込み思案で、ネガティブな思考の持ち主だったと言われている。
*清少納言
『枕草子』の作者で世界最古のブログとも言われている。
一条天皇の時代、正暦4年(993年)から、女房として中宮定子に仕えた。博学で気が強い彼女は明るく朗らかな性格であった。
*和泉式部
当時の宮廷で大スキャンダルを巻き起こした恋多き女性。
また和歌の達人としても有名で、紫式部にも一目置かれていた。
(4)紫式部と清少納言の関係
一条天皇に、先に嫁いだ定子の女房が清少納言(993年頃-1001年頃宮仕え)で、後に嫁いだ
彰子の女房が紫式部(1005年頃-1012年頃宮仕え)で2人はライバル視されるが、宮廷にいた時期がずれているため面識がなかったと言われている。
ただ、枕草子は当時から宮廷内でも読まれていたらしく、枕草子には清少納言が男性貴族たちと、知的に明るく振る舞う様子が描かれている。紫式部は、性格はかなり引っ込み思案だったようで枕草子から伝わる清少納言像に嫌悪感を覚えた可能性がある。紫式部日記では、清少納言に対して凄まじい酷評をしている。
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