古代ローマ水道は驚異的だったが、江戸玉川上水も凄かった

人生100年時代

 
古代ローマの上水道は、はるか昔でもあり技術的にも驚異的である。しかしヨーロッパは、古代ローマ以後、上水に苦労する。
一方、日本では、自然が水に恵まれ、井戸水や川から水を採取出来た。井戸水が塩気で困難な江戸で古代ローマの技術に負けず劣らず上水道が発達したのは驚嘆に値する。
 
第34、35回ではすぐれた日本の上下水処理(上水道、下水処理)について述べていきます。
 
下記の書物を勉強し参考にさせていただいた。
 
江戸上水道の歴史 (歴史文化セレクション) 2010 伊藤好一 (著)

江戸の水道 (同成社江戸時代史叢書)  2012 野中 和夫 (編集)
わが国における上水道の発達 1980 小菅伸彦
 
第34回 すぐれた日本の上下水処理-1  上水道


1)世界人類祖先と水
*約200万年前、アフリカに出現した人間の祖先は、生活の場を水辺に求めて集まった。
*川や湖などの水辺は、飲み水がすぐ手に入るだけでなく、水を飲みに集まってくる動物の狩りを行うこともできたのである。
*農耕にもよい場所だった。
*約20万年〜10万年前、次第にいかだや小船で海原へと漕ぎ出し、はるか遠くと旅立った。
 
2)上水道技術
(1)古代ローマのローマ水道   
詳細は文面が足りないが、古代ローマ帝国(紀元前753年~467年)では、紀元前312年~3世紀にかけてローマ数多くの上水道が建設された。
*都市や工場地に水を供給するためであり、ローマ人は帝国内のどのような大都市においても水道を建設した。
*ローマは最大の都市であり、500年かけて建造された11の水道から水が供給される最大の水道の集積地であった。
*現代においてもこの古代の水道は2000年以上も水を供給しつづけている。
 
①   水道の長さの合計は350kmでほとんど地下(地上は47kmのみ)。敵の破壊攻撃からの防御と動物の死骸やごみの混入を防止するため。
②最も長いものは、2世紀にカルタゴ(現チュニジア)に作られたハドリアヌス水道で、141キロの長さがある。
ローマ水道は非常に精巧に作られており1kmあたり34cmの傾斜(1:3000)、50kmキロメートルの距離で垂直方向にわずか17m下がるだけである。勾配を計算すると0.0187°となる。完全に重力に頼っており効率よく大量の水を運んでいた。
③フランスのポン・デユ
ガールでは、20,000m3/日、1本の水道によりローマ市に供給された水量は1,000,000m3/日もなり、1m3/日人、現代の東京都民の水使用量を超える。
④水道施設を構成する建造物には、地下や地上の導水渠、導水渠を載せるための連続アーチ構造の水道橋、不純物を沈殿除去する沈殿池、末端の分水施設などがあった。
⑤市街地の分水施設に到達した水は、陶管・鉛管・青銅管等を通り公衆浴場や邸宅、公共施設、庶民が水を汲みに来る噴水などに配水されていた。
⑥水道水に溶け出す鉛が有害であることは既に知られていたが、陶管に比べ自在な形に曲げやすい鉛管が末端の給水管に使われることも多かった。これが鉛中毒の原因の一つであったという説もある。
⑦高度な建築技術のみならず、故障や、堆積物の掃除、炭酸カルシウムの析出物の除去の包括的なメンテナンスシステムを行っていた。
 
(2)ヨーロッパ 中世から近世
①中世
*水道が建設されたのは、パリでは1190年頃、ロンドンでは1235年、ドイツでは1527年である。無処理のまま水だけを供給する施設で、浄水処理を取り入れた近代水道の建設は19世紀に入ってからである
*ヨーロッパ北部では、安全性に問題のある水の代わりにオオムギやエンバクを発酵させたアルコール飲料を飲んでいた。
②近世
*18世紀、川から汲みあげた水が町の中心地に来る頃にはすっかり汚れ悪臭を放つといわれていた。水を「水運び人」からわざわざ買うようになっていた。
*1830年から1853年にロンドンでコレラが大流行し、水道はテムズ川の上流からくみあげ、「砂濾過」をしてから各家庭にくばると法律が制定された。
*1804年、イギリスで最初に浄水処理の沪過が取り入れられた。
*1987年、イギリスで次亜塩素酸カルシウムによる塩素消毒が初めて採用された。
(3)アメリカ
個人の井戸から発展して次のようになっていった。
*1652年にボストンに最初の水道事業体が発足した。
*1832年にはリッチモンドに最初の近代的な浄水場が建設された。
*1850年頃まで水質への配慮を十分に行う、公営の水道事業が徐々に増えていった。
*19世紀に入って都市化が急速に発展進展とともにするとともに流行した水系伝染病のコレラやチフスへの対策として、近代的な浄水場の建設や配水管・給水管の整備が進んだ。
 
2)日本の上水道の歴史
(1)古代日本人と水
①縄文時代  紀元前14000年〜紀元前10世紀
縄文時代までの人々は、川や池、湧き水などから水を得ていたようです。
②弥生時代  紀元前10世紀~後3世紀中頃
「人と水の関係」は縄文時代と弥生時代で大きく変化した。
*縄文後期から始まった稲作のため、その水を手に入れるためやおいしい水を飲むために、地面に穴を掘って木製の枠をはめこんで作った井戸をつくった。
(2)日本現役最古の上水道である轟泉水道
*熊本県宇土市の宇土城址より西へ約1kmの所に、轟水源がある。白山の北麓から湧出して豊かな清水がこんこんと湧き湧水量は1日約3千トン、水温は16度。
*1664(寛文4)年、細川支藩二代細川行孝がここから市街地まで上水道を作った。
*1764(明和元年)年頃、陶管の老朽化のために変え石管としました。自然流下方式 で幹支線総延長約4.8km。
*今日でも一年中、多くの人々が美味しい湧水を求めて訪れ、約100戸が上水道として利用されている。
(3)江戸の上水
江戸は開府以来、人口が爆発的に増え、海岸に近い湿地を埋め立てた造成地が多かったため、井戸を掘っても塩分の強い水が出て、当初から飲料水の確保に悩まされていた。
*神田上水
1590年井之頭池を源泉とする日本最初の上水、神田上水(小石川上水から発展)を開設。
*玉川上水      当時の幕府が実施した一大事業
1654年玉川から四谷の水門まで43キロメートルに達する玉川上水を開設。 
当時世界で最も進んだ世界最高と言える給水システムをたった8か月という短期間で作り上げた(水準器や勾配器の利用や測量教本の存在が記録されており、測量技術は確かなものであった)。
高低差のみで水を運ぶ「自然流下式」(古代ローマのローマ水道と同じ)であり、43kmを高低差わずか92mしかなくその技術の高さが伺える。勾配を計算すると0.0208°でほぼローマ水道の0.0187°に匹敵する精巧な造りであった。
石や木で造られた水道管(石樋・木樋)によって上水井戸に導かれ、人々はそこから水をくみあげて飲料水・生活用水として使用した。
町人だった庄右衛門 と清右衛門の兄弟の功績で、幕府から「玉川姓」を賜った。 「玉川上水」はその姓を採って命名されたといわれている。

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