自己紹介の4回目です
自己紹介 | |
時代 | 人生感が変わった出来事 |
No.2 幼少~中学 | 俄然勉強に火をつけた何か? |
No.3 高校 | 学校をくそと思って自分で猛勉強 |
No.4 京大 | 自由を謳歌 |
No.5 東大大学院 | 東大エリート意識 |
No.6 会社 | ブラックな時代 |
No.7 教員-1 | 姑息な学長 |
No.8 教員-2 | 人間・若人の無限の能力 |
No.9 教員-3 | 教員・研究者の狭量 |
自己紹介-4 (京大 自由を謳歌)
私は昭和44年(1969年)に京都大学工学部に入学した。
高校3年生の正月前にはなんとなく東大かなと思っており、頑張っていた矢先、学生紛争で安田講堂事件が発生した。東大入試中止の年だった。何やってくれてんねん! 京大でいいねんけど、全国から来るから難しくなるやん!
京都大学の4年間は、まともに授業があったのは3年(3回生という)の専門課程になってからであった。
希望に胸を膨らませて入学したが入学式がなかった。ついでに言うと卒業式も結局なかった。新入生の1回生時は、授業は細々とあったように思うが、教養部の入口が少し開いてそこから出入りして教室に行っていたと思う。
京都大学の学生時代のことを述べる前に、大学入試のことをまず記さなければならない。
これが、ひどかった。
入学試験のため、宝塚の家からだと当日何かあってはいけないので、京都三条河原町の京都ホテル(大学吉田キャンパスまで市電で約30分)を予約した。
ところが、直前になって、吉田キャンパスが封鎖されているので2日間、宇治キャンパスで試験を行うとのことになった。事前に場所を見る暇もなく試験当日いきなりホテルから出かけたが当然スマホ乗換案内等もないので、乗換等もよくわからないまま約1時間ほどかかったように思う。
宇治キャンパスの試験会場がまたひどかった。初日当日大変寒く積雪があったが、何個かのバラック小屋(暖房はなし)の中に長テーブルが並んでおり、二人掛けだったと思うが、問題の解答時に消しゴムを使うとぎしぎしと揺れるという状態であった。
トイレがひどかった。寒かったので物理の試験の時、小便に行きたくなったが、急こしらえの仕切りのない長い排水設備で、教官がカンニング防止のため、中まで入ってきて(デリカシーがない)真横で監視しているので、小便が出ず、結局そのまま教室に帰った。物理は散々だったように思う。
入学試験というのは、こうしたマイナス要因に影響されても大丈夫なような絶対の能力差がないと合格しないのかもしれない。
そのような悪条件の中、何とか合格でき、これほどうれしいことはなく、親孝行も少しはできたかなと今になって思う。合格発表(なぜか吉田キャンパス)を母親と見に行ったが、帰りの阪急電車での会話内容は覚えていないが、喜びはいまでも何んとなく覚えている。
さて、希望に胸を膨らませて入学することになったが、この後も最悪であった。
京都に下宿は4年生の時に少ししたが、ほとんどの期間、阪急電車で宝塚から吉田キャンパスまで約2時間かかって通っていた。宝塚線から京都線に十三で乗換て四条河原町に行き、そこから市電①系統で四条通り、東大路通りを通って東一条で下りる。
前述のように1回生時は、授業は細々としかなく、大学に行かず家で寝ていたら、怒られた。大学に行って来いと。事情を話したが、あまりわかってもらえなかったようだ。
それで、仕方なく家を出て京都に行きぶらぶらしていた。また、暇なので生協紹介で自動車の免許(自動二輪もついていた)を約2万5千円位で取得した。
蛇足であるが、この当時はどこでも運転免許の教員は柄が悪く、ひどい扱いを受け今でも思い出して腹が立つ。
京都大学では、何個かの運動クラブに入ったが、家から通っていたこともあり長続きしなかった。1、2回生の時は、学生運動がまだ盛んで校内をヘルメット姿の各派の学生が角棒をもって闊歩しており、クラブと学生運動の関係があるため、怖かったこともある。
今だったら、アメフト位に入っていたかもしれない。
この年になって思うのは、京都大学での学生生活は思い切って何かをやり遂げたという感じがしない点である。環境のせいにしてはいけないが残念に思う。
しかし、同じクラスの親しい中間が何人かおり、勉強はそこそこで麻雀、ソフトボールやらで楽しく過ごしていた。
4回生になり、いよいよ就職ということになったが、大学が教育は5年間(つまり修士課程に進学)で完結するような指導をしていたので半数以上の学生は大学院の入試(夏頃)を受けた。自分は、4回生の卒論テーマが電子顕微鏡を使うような研究だったので、同業者であったが、1研究室で電顕を複数保持し自由に使える東大宇宙航空研究所に行きたいと思うようになっていた。両大学大学院の入試に合格したので、当初予定通り東大に進学した。冬のおみくじを引くと吉と出ていたような気がする。
しかし、これが大変な苦労の始まりだった。
なお、この当時京都大学学部から東京大学大学院に進学するケースもあったと思われるが、京大大学院をけって東大大学院に進んだのは本当にまれで、世間体には「不義理」を働いたと思い今でも身が引き締まる。
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